茨木小学校

中川公が城主だった茨木城跡
茨木小学校

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私は京都府下京区に生まれ、下京区のアソカ幼稚園に三年通い、下京区七条第三小学校に入学したのですが、父の希望で大阪府茨木市に移転し、茨木市立茨木小学校に転校しました。実はこの学校の敷地、茨木城跡だったんです。

城主については変遷がありますが、天正5年(1557年)には、中川清秀が城主になっています。天正11年(1583年)清秀が賤ヶ岳の戦いで戦死。息子の中川秀政があとをつぎます。

この中川公、豊臣秀吉のとりたててで兵庫県三木に移ります。その後、秀吉に左遷されて豊後竹田に移りました。

不思議です。

私は茨木市立茨木小学校→茨木市立大池小学校→茨木市立東中学校→茨木市の大阪府立春日丘高校で学びました。

その茨木のお殿様が、左遷されてここ豊後竹田市に移転したんです。私はそんな竹田市に2002年から住んでいます。竹田と茨木にそんなご縁があることを知らずにiターンしたんです。

さて、上の写真は茨木小学校2年生か3年生のとき。校庭です。私は前列右端。何人かは名前を覚えています。石碑の下に担任の松田先生がみんなに囲まれています。“お兄さん”みたいな感じで、気さくで楽しく生徒に接する大変人気のある先生でした。

下は写真の背景の石碑の篆額部分を拡大。

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どういう石碑だったのだろうとネット検索すると出てきました。

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出典:http://www.h3.dion.ne.jp/~miyachan/ibarakisyougakkou.htm

「片桐氏茨木在城碑」だったんです。
右から左に書かれています。

茨氏桐片
碑城在木

この二行の下の部分が写っていたんです。

そうそう、茨木では中川公のことより、最後のお殿様とされる片桐且元ばかりが知られていたと思います。

つづく

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