おかね年譜
おかね年譜
おかねさんに関連した人物や事件も含めた次のような年譜をまとめてました。
西暦 | 和歴 | ことがら |
---|---|---|
1849年 | 嘉永2 | おかねさんを世話したおかつさん誕生 |
1850年 | 嘉永3 | ピエール・ロティ(Pierre Loti)誕生 ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)誕生 |
1853年 | 嘉永6 | ゴッホ誕生 |
1858年 | 安政5 | プッチーニ誕生 |
1868年 | 明治元年 | 明治新政府樹立 大日本帝国海軍軍人・広瀬武夫誕生 |
1869年 | 明治2 | おかねさん誕生(推定) |
1877年 | 明治10 | 西南戦争勃発、竹田の街が燃える |
1879年 | 明治12 | 作曲家・瀧廉太郎誕生 |
1883年 | 明治16 | 彫刻家・朝倉文夫誕生 |
1885年 | 明治18 | ロティ、長崎に滞在。おかねさんと同棲 |
1886年 | 明治19 | 『狂女オカネの生涯』の著者の父・後藤是山誕生 |
1887年 | 明治20 | ロティ、『マダム・クリザンテーム』を出版 |
1888年 | 明治21 | ゴッホ「ラ・ムスメ」を描く |
1890年 | 明治23 | ゴッホ死去(37歳) ラフカディオ・ハーン来日 |
1898年 | 明治31 | J・L・ロングが小説『マダム・バタフライ』発表 |
1900年 | 明治33 | ベラスコが『マダム・バラフライ』の戯曲完成 プッチーニが戯曲『マダム・バタフライ』を観劇 |
1900年 | 明治33 | 12月ロティ再来日 |
1901年 | 明治34 | 10月ロティ、離日 おかねさん、竹田に帰郷し鳥岳の洞窟に棲みつく 瀧廉太郎が『荒城の月』作曲 |
1903年 | 明治36 | おかねさん、帰郷した広瀬中佐に「お帰りなさい」と言う 瀧廉太郎死去(23歳) |
1904年 | 明治37 | プッチーニの歌劇『マダム・バタフライ』初演 |
1904年 | 明治37 | 日露戦争(翌1905年9月終戦) 広瀬武夫戦死(35歳) ラフカディオ・ハーン死去(54歳) |
1910年 | 明治43 | 『狂女オカネの生涯』の著者・後藤是美誕生 |
1921年 | 大正10 | おかねさん死去(52、3歳) |
1923年 | 大正12 | ロティ死去(77歳) |
1924年 | 大正13 | プッチーニ死去(65歳) |
1940年 | 昭和15 | おかねさんを世話したおかつさん死去(91歳) |
1964年 | 昭和39 | 朝倉文夫死去(81歳) |
1980年 | 昭和55 | 後藤是美著『狂女オカネの生涯』出版 |
1986年 | 昭和66 | 後藤是山死去(99歳) |
1995年 | 平成7 | 後藤是美死去(85歳) |
1999年 | 平成11 | 竹田市図書館が上記の本をコピーして製本 |
2013年 | 平成25 | 上記コピー版を竹田市図書館から借りる |
後藤是美氏同様、私もおかねさんが「お菊さん」だと思います。けれどこの小さな年譜を作っているうちに、「お菊さん」が竹田のおかねさんかどうかということは些末なことかも知れないと感じました。
竹田のおかねさんが長崎に行って芸者になった理由は
明治維新のことがテーマになるとき、坂本龍馬や吉田松陰、西郷隆盛、勝舟海のような“英雄”たちがクローズアップされがちで、竹田のおかねさんのような女性たちのことが見落とされがちです。
竹田のおかねさんのような女性はいっぱいいたのでしょう。革命とか戦争の犠牲になって、生きるためにやむをえず外国人相手の“現地妻”になるケースです。同じことが太平洋戦争敗戦のときにも起こりました。いや、世界中で同じことが起き、同じことがくり返されてきました。
『蝶々夫人』はアメリカ版『お菊さん』であったと思います。
そしてベトナム版『お菊さん』が『ミス・サイゴン』だった。