おかねさん

Okané San=Madam Chrysenthème=Madame Butterfly?
狂女おかね=お菊さん=蝶々夫人
(編集作業中)

画像の説明
おかねさんが棲んだという洞窟付近に立つ竹田市の看板 2011/11/23

ここ九州大分県・豊後竹田出身の「おかねさん」こそが、ピエール・ロティの「お菊さん」だったとする説があります。

もしお菊さんが、竹田のおかねさんだとすると、この小説に非常に残酷なストーリー(後日譚)がまとわりつくことになり、その暗い影がプッチーニの歌劇「蝶々夫人」にまで及ぶ可能性があります。

画像の説明
矢印がおかねさんが棲んでいたという鳥岳の洞窟 2011/11/23

画像の説明
洞窟に接近 2011/11/23

私はこの辛いストーリーを避けてきました。おかねさんのことなど忘れようとしてきたのですが私の“散歩”のエリアに、狂ったおかねさんが余生を送ったという小さな洞窟があって、彼女を無視し続けることができなくなり・・・今日竹田市図書館から後藤是美著『狂女オカネの生涯』を借りたことで、とうとう、おかねさん=お菊さんのことに向き合うタイミングがやってきました。(2013/10/12)

もともとこのストーリーに出会ったのは2011年のことでした。

画像の説明

フランスの作家ピエール・ロティ の有名な小説『Madame Chrysenthème(マダム・クリザンテーム)』。

クリザンテームは“菊”を意味するフランス語。日本では『お菊さん』と訳されています。

1887年(明治18年)、『マダム・クリザンテーム』は発売と同時にベストセラーになり各国語に翻訳されました。

画家のゴッホは『お菊さん』を読んで日本に対する憧れを込めて「ラ・ムスメ」と題した絵を描きました。

ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)も、『お菊さん』を読んで日本に来ることを決めたのでした。


画像の説明

そしてアメリカのジョン・ルーサー・ロングは1898年(明治31年)、小説『Madame Butterfly(蝶々夫人)』を書きました。

菊(クリザンテーム)と
蝶(バタフライ)・・・

菊と暮らしたフランス海軍士官ロティ。
蝶と暮らしたアメリカ海軍士官ピンカートン。

菊も蝶も美しく傷つきやすいはかない生命。パートナーの男性はどちらも異国の軍人。

小説『蝶々夫人』はアメリカ版『お菊さん』のようなものであると思います。

画像の説明
出典:http://www.thegipsyintheparlour.com/2012/04/night-at-opera.html

画像の説明 画像の説明

後藤是美著『狂女オカネの生涯』1980年(昭和55年)出版。
上の竹田市の看板は、この本を根拠にしていると思われます。

この本の「はじめに」のなかで、“お菊さん”の本名が“おかねさん”であったことを述べられています。
根拠は次のジュリエット・アダム宛の書簡です。

私は数週間まえ、この国の司祭や同胞のイヴや、集まってくれた二家族のまえで、17歳の乙女と結婚しました。彼女はオカネサンといいます。

オカネサンは、あなたの家の東洋間の壁の上にあるあの女の人形のような衣服をまとっています。(略)彼女は毎日、柄の長い一種のギターをひき、それで彼女の憂鬱を回復します。

ギターって何だろうと思うと、8月7日(1885年/明治18年)付けのナデイヌ・デュヴィノウ夫人(ロティの姪)宛の手紙でわかります。

僕の妻の容姿なんだが、君も着物だの、身丈だの、頭へ大きなかんざしをさしていることなどは、どの扇にも描いてあるし又お茶碗の絵などでご存知の通りさ。

顔はもっとそれより優しくって、なごやかで、ちょっと淋しみがある。そしてよく三味線を弾くのだ。三味線っていうのは柄の長いギターみたいなもので荘重な音色を出す楽器のことだ。

&show(): File not found: "geisha01.jpg" at page "おかねさん";

これは120年まえの京都の芸者さんの姿だそうです。
マダム・クリザンテームは、本名が「おかねさん」でなくてはならないのは当然ですが、三味線が弾けるひとであったということで、少しは人物をしぼれるでしょうか・・・

さて著者・後藤是美氏はどうして、洞窟に暮らした竹田のおかねさんが、あのマダム・クリザンテームと同一人物だと見るに至ったのか・・・

ある晴れた日の夕方、当時竹田中学校(現在、県立竹田高等学校)の生徒だった私の父は朝倉文夫氏(彫刻家・故人)など2、3人の学友と散歩に鳥岳に登る途中、偶然にも、これも散歩を終えて下って来た杉山校長(初代竹田中学校長)にお逢した。挨拶をした生徒たちに、杉山先生は、開口一番

「人間、オカネくらい徹底すればえらいもんだね」

と言われたという。

&show(): File not found: "zezan01_150.jpg" at page "おかねさん";&show(): File not found: "fumio01.jpg" at page "おかねさん";

左が後藤是美氏のお父さん、後藤是山(ぜざん)。右が朝倉文夫
朝倉文夫は明治16年生まれ。後藤是山が明治19年生まれ。3歳年が離れていますが、朝倉文夫は旧竹田中学校を三度も落第しているので、二人が“学友”になったのかも知れません。

ちなみに、朝倉文夫の先輩に作曲家・瀧廉太郎がいました。「滝君とは竹田高等小学校の同窓であった。君は十五才自分は十一才」と文夫がつくった瀧廉太郎像の裏に刻まれています。

『狂女オカネの生涯』には、おかねさんが竹田の鳥岳の洞窟に棲みつくようになったのは明治34、5年(1901~1902年)頃だと書かれています。

明治34年のころ朝倉文夫は18歳、後藤是山は15歳だということになります。旧制中学は12歳から17歳が就学期間なので、まさにその時期の「ある晴れた日の夕方に」、「人間、オカネくらい徹底すればえらいもんだね」と少年期のふたりが聞いたことは間違いない事実でしょう。

当時、竹田の人々は、この乞食女のオカネを狂人といっていたくらいだから、この杉山先生の言われたことばの意味が全然わからなかったという(父のはなし)。

しかし、私は齢40に足らずして、中学校長になられたほどの俊秀杉山先生のことばはそう簡単に聞き捨てられない、と父のこの話をきく度に思ったことであった。

その思いはやがて私に、

「オカネは果たして竹田の人たちの言うように、本当に気が狂っているのだろうか?」という疑問にまで発展して、頭のなかに久しい間にこびりついていたのだが、

歌劇「蝶々夫人」のモデルが竹田に縁(ゆかり)のあるおつるさんであるという通説や、野田氏のお説の裏付けをしているうちに、偶然にも今仁勝先生(宇佐市今仁在位)のご好意で、先生ご所蔵の野上豊一郎訳の「お菊さん」を読ませていただき、更に長崎市の図書館で中村重嘉氏の「ピエール・ロチ雑藁」の冒頭のロチの書簡を見る機会を持ったが、「お菊さん」を読み、その書簡を見ているうちに、私はふっと父のはなしに思い当たって、ハッとした。

「ひょっとすると、お菊さん-オカネサン-が鳥岳のオカネではなかったろうか?」

初代竹田中学校長の杉山先生はおかねさんについての真相を知っておられたのでしょう。もしこの先生が何らかの記録を残しておられたら、狂った乞食女の正体がわかる、なぜ彼女がえらいのかが、わかるのですが・・・
杉山先生が認識されていたことが伝承されていません。後藤是山ですら、杉山先生の言われたことが謎のままだった。

画像の説明
忠婢有栄かの墓 2013/10/17

おかねさんのことを正確に伝承する人がないなかで、『狂女オカネの生涯』は、洞窟に棲むおかねさんを親身になって世話した“おかつさん”のことについて触れています。

オカネの話をきけばきくほど、若くして狂っていったオカネに同情し、人々から「仲がいい」と言われたくらい「かわいがった」(加藤八千代さん談)という。

それから以後ずっとオカネが生涯を終るまで、本当に親身になって世話をし、オカネが死んだ時も、長崎の息子に連絡して、その遺骨を長崎に持ち帰らせたのもおかつさんであった。

画像の説明

墓の側面に「通称かつ」と刻まれています。
本名有栄かの、飛騨高山の人。
広瀬家の女中として60年も仕えたとあります。

画像の説明

大日本帝国海軍軍人・広瀬武夫中佐の墓に隣接する広瀬家墓所におかつさんの墓があります。画面右端がおかつさんの墓です。

広瀬中佐
広瀬中佐

『狂女オカネの生涯』の引用を続けます。

明治36年(1903年)1月、厳寒のシベリアを経由して、ロシアから帰国した広瀬武夫中佐、そして更に翌年決死隊に参加するため、最後の別れに帰郷した中佐を迎えた人々の中に、鳥岳のオカネの姿があった。

出生の年をほとんど同じくした中佐とオカネであったが、父重武の役所勤めで、幼時から竹田を離れていた中佐と、若くして長崎に住んでいたオカネとは、初対面と云っていほどで、面識などある筈もなかったろう。

旦那さん、お帰りなさい」
それにもかかわらず、オカネはこう挨拶したそうである。

この話は、その当時幼少であった加藤八千代さん(旧姓衛藤)が、おかつさんから聞いたという。そのとき衛藤家の家事見習をしていた新郷タキさん(旧姓古田)もこの話を覚えていたそうです。

&show(): File not found: "loti263.jpg" at page "おかねさん";&show(): File not found: "takeo01_263.jpg" at page "おかねさん";

左はおかねさんと同棲したフランス海軍軍人のピエール・ロティ
右、広瀬中佐。

「旦那さん」と云ったオカネのことばには、あるいは中佐その人ではなく、海軍士官の凛々しい姿の中佐を透して、かつて長崎でけだるい一夏を自分の愛の巣をもった海軍士官ジュリアン・ヴィオ(ピエール・ロチ)の姿が浮かんでいたのではなかろうか?

そうすると、杉山校長に「オカネぐらい徹底すればえらいものだ」と云わせたオカネも、もうその頃には、やはりそろそろ常人の域を逸脱しはじめていた、とも思われる。

後藤是美氏がこの本を書かれた1980年当時、おかねさんのことを記憶する人々が竹田にあったようです。

▲カネサンは長崎で芸者になっていた、という。よくホーキ三味線で、小声でつぶやくように唄を口ずさんでいた。小柄の美しい人であった、と思われる(白石タキさん談)
小柄の美人であったらしい、ということはオカネの話をしてくれた皆さんが口を揃えていわれたことで、その面影が狂ったあとも偲ばれたようだから、間違いあるまい。

▲カネサンは奇麗好きで、着物なども派手好みではなかったらしい。(註・狂った後も赤とかいった色合いのものは好まなかったそうである)たちふるまいもきちんとしていた。物貰いに歩くのも、きまった家だけに行って、他所には行かなかった。(清田鮮魚店のおばさん談)
                
▲カネサンは結婚していたらしい。鉄襲(おはぐろ)をつけていた。(岡村キクさん談)

▲カネサンは三味線が上手であったらしい。長崎から子供(はっきりしないが男の子だったと思う)が迎えに来たが、狂ったあとだったので (オカネが帰るのを嫌ったとも云う)そのまま帰った。(板井コトさん・神田カヨさんの談)

&show(): File not found: "zezan01_150.jpg" at page "おかねさん";

そして、後藤是美氏は父・後藤是山とのこんなエピソードも書いています。

ある時、父と話をしているうちに、何かのはずみで「お菊さん」の話になった。
「ロチは、ネコのような目をした小さな女が好きだったらしいですね。お菊さんの中には数カ所、お菊さんの目を猫のように表現した箇所があるのです」
「猫の目か! さすがにロチだね。ぴったりと適格にオカネを見ていたらしいな。オカネの目はまったく猫の目だった」
父はそう言って笑った。


画像の説明画像の説明

画像の説明画像の説明

上の二枚の写真、ネット検索で見つけました。
出典:http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b1400003v
下の二枚は私が拡大加工して何度も顔を見比べました。

ふたりの女性は顔立ちが違っています。別人だと思います。
どちらがマダム・クリザンテーム=おかねさんでしょうか?
右の女性がおかねさんであるようです。

左の写真には単に
Nagasaki 12 sept. 1885.
とだけ筆記されているのに、右の写真には次のような説明が添えられています。

Nagasaki, 12 sept. 1885. Pierre Le Cor (mon frère Yves), Pierre Loti et "Madame Chrysanthème".

1885年9月12日、長崎。ピエール・ル・コル(私の兄弟イヴ)、ピエール・ロティと“マダムクリザンテーム”

同じ写真を掲載しているサイトPierre Le Cor, Okané San ( Madame Chrysanthème ) et Pierre Loti.という表記がありました。ピエール・ル・コル、オカネサン(マダム・クリザンテーム)とピエール・ロティ
出典:http://www.pierreloti.org/viemadamechrysantheme.htm
ピエール・ロティの友人の国際交流協会:http://www.pierreloti.org/

“私の兄弟イヴ”についてはウィキペディアに記載があります。

1883年、彼はより広く世間の注目を浴びた。その一つ目。彼は熱狂的な喝采を浴びた『私の兄弟イヴ(Mon frere Yves)』を出版した。これはフランス人の海軍士官(ピエール・ロティ)とブルターニュ人の水夫(イヴ・ケルマディック)の人生を描いた小説である。
出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%86%E3%82%A3

つまり、この一枚の写真には、彼の小説の主人公ふたりと、小説の作者が写っているわけです。

#show(): File not found: "okikusan01.jpg"

実はピエール・ロティは『マダム・クリザンテーム(お菊さん)』の冒頭で上の写真のことに触れています。

この小説を献呈したリシュリウ夫人への言葉としてこう書かれています。

あなたはあの写真・・・少しおかしな写真ではありましたが・・・大男のイヴとある一人の日本の娘と私と、この三人がナガサキの写真屋の注文通り一緒に列んで撮られた写真を記憶していますか?

画像の説明

この写真の女性がおかねさんであることは間違いないでしょう、ただ彼女が竹田のおかねさんであったかどうかについては・・・

後藤是美氏の“狂女オカネ=お菊さん”説の根拠は次の5点だと思います。

1.お菊さんの本名はおかねさんだった。

2.竹田のおかねさんは長崎で芸者をしていた。

3.竹田のおかねさんは「お菊さん」同様、三味線が上手であったという。

4.竹田のおかねさんは「お菊さん」同様、猫のような目をしていた。

5.ピエール・ロティと同棲したとき(明治18年)、おかねさんは17歳だった。竹田のおかねさんの人生を推定していくと、「お菊さん」はおかねさんの人生に重なり合う。年齢的に矛盾しない。

写真のおかねさんが竹田のおかねさんである可能性は高いと思います。ひょっとしたらそうだったのかも知れません。けれど決定的な証拠に欠けます。今のところ“推測”の域をこえません。



&show(): File not found: "inari111123e.jpg" at page "おかねさん";

洞窟のある社から見える旧竹田市街。
この風情、その当時と大きくは変わっていないでしょう。
おかねさんは、どんな思いでこの景色を眺めていたでしょう・・・

画像の説明

『狂女オカネの生涯』では「オカネが棲んだ鳥岳の洞窟」としてこのような写真が掲げられています。

これは奇妙なことです。現在の洞窟とは様子が違います。
この写真を見ると洞窟とはいえ建造物が見えます。それなりの住居だったのでしょうか?

それと、この本では

この鳥岳の頂上に近く、小さな洞窟(現在は入口を塞いである)が

と書かれています。私がおかねさんの洞窟だと認識していた場所は、本当は彼女が棲んだところではないのかも知れません。

続く・・・



リンク

powered by Quick Homepage Maker 5.0
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional