佐川官兵衛の墓

会津藩家老。戊申戦争で生き残り
九州・阿蘇で戦死(西南戦争)したラストサムライ

佐川官兵衛の墓

2013/03/17

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2013年度NHK大河ドラマの『八重の桜』で、佐川官兵衛を演じる中村獅童。

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福島県出身の西田敏行演じる会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)と会話する佐川官兵衛。

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ウィキペディアに官兵衛の実物の写真があります。中央の人物です。

左の人物といい、このただならぬ表情・・・これは会津戦争直後のものなのでしょうか?

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先週の3月14日、この佐川官兵衛のお墓に参ってきました。
会津に行ってきたのではありません。大分市の松栄山にある大分県護国神社です。なぜ会津藩家老の官兵衛のお墓が大分市にあるのか・・・・・

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彼は維新後の明治7年、生活苦にあえぐ旧会津藩士300名を率いて警視庁に奉職し一等大警部となりました。

西南の役が起きた明治10年当時、東京麹町の警察署長をしていたそうですが、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として従軍を命じられました。

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そして明治10年3月18日、南阿蘇で薩摩軍に銃撃されて戦死します。
ちょうど136年まえの明日、佐川官兵衛は亡くなったのでした。
このタイミング、シンクロニシティかも知れません。

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お墓の裏です。福島県士族、豊後口警視まで判読できます。

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お墓ができたのは翌年の9月でした。

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これが大分県護国神社の、西南の役で殉職した警察官関係者の墓地です。ここに官兵衛の墓があります(右の列の奥)。

佐川官兵衛という名前を初めて知ったのは一昨年でした。
竹田西南戦争研究会著『竹田における西南戦争の記録 桃源郷の銃声』という刊行されたばかりの小冊子の序文は「平成18年3月18日。私は阿蘇群南阿蘇村河陽黒川で営まれた、佐川官兵衛碑前祭に参列した。冷たい雨の中で、鬼官兵衛戦死の地に初めて立った私は深く感銘を覚えた」という文から始まっていました。その官兵衛が大河ドラマ『八重の桜』に登場したことに驚きました。

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南阿蘇村(旧白水村)の明神池です。
2013年2月21日に寄りました。
エンジェルファームから約50分ぐらいの距離です。

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ここは湧き水の池です。池というより泉です。佐川官兵衛は明治10年3月17日この水を飲んで辞世の句を詠んだという。つまり今日は官兵衛が明神池の湧き水を飲んで死を覚悟した記念日ということです。

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君がため都の空を打ちいでて 
阿蘇山麓に身は露となる

明神池のほとりに佐川官兵衛記念館が建っていて
そこにこんな資料がたくさん集められており、そこで彼の辞世の句を知りました。

おそらく死に場所を探していた官兵衛にとって、天皇のために阿蘇で討ち死にすることが、朝敵の汚名を着せられた会津の汚名を晴らすことになることを意識していたのでしょう。

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ふきさそう峯の嵐に先立ちて 花にかざせる青葉なりけり

資料館には官兵衛直筆の和歌が飾られていました。

さあ早く散ってしまえと峯から風が吹くまえに、美しく咲いた山桜に、かんざしのごとく彩りを添えている青葉よ

北国の国文学者(現新潟大学教授)、錦仁(にしきひとし)先生の評が添えられています。

書体から考えるに、機敏で、背は小さい。
俊敏で潔癖な気性と見える。
対象がしっかりと表現されており
全体としてなかなか優れている。
これだけの素養をもって歌を詠み
生きていたのか奥ゆかしいものよ
このころの日本人は。

さて、竹田西南戦争研究会著『竹田における西南戦争の記録 桃源郷の銃声』によると、ここ豊後竹田は西南の役によって「消失家屋1500戸余り、両軍の戦死者213人、負傷者400人以上という大変な犠牲を払った場所であります」。

なかでも薩摩軍が陣地を置いた騎牟礼城址(古城)は、激戦地であり、上の本で「田原坂の攻防では、1日に40~50万発の弾丸が飛び交ったといわれるが、この日の古城戦もそれに匹敵するものがあったという」と書かれています。

実はエンジェルファームは、この騎牟礼城址に通じる山道の重要な入り口に位置します。

エンジェルファームの裏庭に、“火伏せの神さま”があって、そのお陰で集落の全戸が燃えたときにも、築明治元年(1868年)のこの家だけが燃えなかったという。

集落のお年寄りに、全戸が燃えたのはいつごろの話だったのですか?と聞くと、「いつごろともわからないほど昔のこと」というトホホな回答でしたが、このあたりの田畑から弾丸がたくさん出土したのは本当らしいです。全戸が燃えたのは、騎牟礼城址で激戦があったときでしょう。このあたりの田畑や神社(飛田川八幡社)からも、たくさんの弾丸が出土したそうです。

2006年に火伏せの神さまのことをブログに書きました。
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/abe4916d9e32aa02d2bbc9b2f4c8bbb4
http://blog.goo.ne.jp/ki_goo/e/75425c673c8d38ea9a3628ee6c84b5fe

本当に火伏せの神様の霊験のおかげで、この家だけが燃えなかったのでしょうか? 築明治元年のこの古民家の売り主は「霊験のおかげと伝えられている。大事にしてほしい」と言われました。ともかく燃えなかったおかげで私たちはここに住むことができました。この古民家が残っていなかったら竹田に定住していなかったかも知れません。

燃えなかったおかげでここに住み、2013年3月17日の今日、137年まえに西南の役で南阿蘇で亡くなった佐川官兵衛のことを書くことになりました。


2013/04/03
一昨日2013年4月1日、母・妻と共に樹齢400年を超える巨大な桜、阿蘇「一心行の桜」を見に行ったとき、その近くである明神池と佐川官兵衛記念館にも寄りました。

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「日本最後の内戦である明治10年の西南の役で、会津藩家老・佐川官兵衛は当地区長門屋の屋敷(現存)にて南郷有志隊と薩摩軍に対する作戦会議を行い、この水で身を清め、当群塚神社に必勝を祈願された事実が残されています」と書かれています。

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明神池に接して建てられている記念碑。
“鬼”官兵衛・・・鬼のように強かった官兵衛、鬼は彼の愛称だったようです。阿蘇でも「鬼さま」と慕われていたようです。

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明神池のほとりにある佐川官兵衛記念館。
「阿蘇になんで会津の旗印が???」と多くのひとは不思議に思うでしょう。NHK大河ドラマ「八重の桜」を期に、戊辰戦争を戦った会津の生き残りのラストサムライたちが戦った西南戦争のこと、豊後竹田や阿蘇で起きたことを発信したいと思います。剣で戦ってきたサムライたちが大砲や銃という近代文明に敗北していく・・・。エンジェルファームのこの家が建てられた明治元年(1868年)前後を境目にそういうことが起きてきたわけです。

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記念館正面の桜は、会津から贈られたものだったんですね。

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佐川官兵衛の辞世の句

君がため都の空を打ちいでて 阿蘇山麓に身は露となる

その説明文を撮りました。

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官兵衛資料館には会津市長・菅家一郎(かんけいちろう)氏の記帳がありました。一昨年ここに来られたんですね。今は衆議院議員になられています。ブログがんがん書かれており感心します。私よりひとつ年上でした。
http://www.election.ne.jp/kanke/


2013/04/27

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